第二話

3月あと2日で4年生の日

『長い一日Part2』

 午後五時、大学に到着後、すぐに解剖が始まる。執刀者は僕である。執刀者の最初の仕事は放血殺をすることである。残酷に思うかも入れないが、放血殺を行わないと、あとで顕微鏡で観察するときに赤血球だらけで組織の観察が難しくなってしまう。だから執刀者はなるべく動物に苦痛を与えないように放血を行う。放血は首を通っている頚動脈で行う。とはいっても、いきなりブスッと血管を切るわけではない。(そんなことをしてしまっては、まわりにいる人みんなが血まみれになってしまう…それほどの勢いである。)放血時にはまず首の皮膚を切開して、内から頚動脈を傷つけないように取り出し、いったん血流を止めてから血管に切れ目をいれてゴム管を挿入する。その後で、血流を再開する。こうすることで勢いよく吹き出る血の向きを一定の方向に(つまりゴム管の向き)に限局でき、周りの人たちが血まみれになることはない。

 この後解剖はみんなで行う。そして解剖後、執刀者はその動物の病変を肉眼所見にまとめる。その後1週間かけてホルマリンにつけておいた臓器をいくつかの作業を行うことで、顕微鏡でみれる状態にする。これを切片という。そしてその切片を顕微鏡で観察し組織所見にまとめ組織診断をし、先生に提出する。これが執刀者の大体の仕事の流れである。つまりは、その動物の病気を診断するのである。

 さて僕の執刀開始。生きている動物の皮膚を切るというのは、まことに気持ちのよくないことである。ある程度皮膚を切ったら血管を傷つけないように結合織、筋組織を両手でかき分けながら進む。これがまた非常に気分のよくないものである。そんでもって、かき分けていくとまず頚静脈に出会う。そいつを通りこしてさらに下に手を伸ばしていくと気管のそばに頚動脈が迷走交感神経幹という太い神経の束をしたがえて現れるのである、…通常ならば。しかし今日は現れなかった。どれだけ首の中をまさくっても、いっこうに現れない。背中からはイヤーな汗が出てくる。"(^_^;)"しかし現れない。

そんな時僕に残された手段は、僕に一通りの基礎を教え込む担当になっている師匠の吉田さんに、子犬のようなつぶらな瞳でSOSを必死に送ることだけである。すると、僕のつぶらな瞳の攻撃の成果なのかはわからないが、吉田さんの「でてこない?ちょっと場所を変わって。」というやさしいお言葉。すぐに頚動脈を見つけてくださった。ここでもう一度僕にバトンタッチ。あとは頚動脈にゴム管を挿入すれば終わりだった…。終わりのはずなのにそこで終わらないからエッセイになるのである。なかなかゴム管が血管に入らないのである。どんなにさしても入らないときは、瞳攻撃第二弾である。しかし、あせっているので間違って小山先生に瞳攻撃を送ってしまった。「どれ、オレがやろう。」、そして5秒後に「これ神経だよ。入るわけないじゃないか。」ときたものだ。この言葉は一瞬にして僕を凍りつかせたね。本来、頚動脈は神経幹より太いしドクンドクンと拍動するのである。確かにこの牛は心臓疾患にかかっていたのだから拍動は弱かった。しかし僕はその弱い拍動音を確かめた上で切ったのである。そこで、「これは世紀の大発見だ。僕は拍動する神経に出会った世界初の人間だ。」などとは開き直れるはずもなく、頭の中は真っ白。そのあとのことなどほとんど覚えていない。解剖を終わって時計をみたら、夜の9時過ぎ。それから帰って吉田さんに手伝ってもらって肉眼所見をまとめ終わったら真夜中の1時だった。こうして僕の病理学教室での波乱万丈の生活がスタートしたのであった…

ついでに言えば、今回の病変のメインである心臓を一度も見ないまま、解剖が終わってしまったことを付け足しておく。