バベシアとトキソプラズマ原虫と向き合って
感染症に立ち向かうキーワードは診断・治療・予防
この3つの側面から社会貢献していきたい
マダニを媒介として感染するバベシア
研究室で開発した診断法がペットの検査項目に
感染病を引き起こす微生物にはインフルエンザウイルスなどのウイルス、結核菌などの細菌、そしてマラリア原虫などに代表される原虫がある。そもそも原虫とは単細胞の微生物で外から栄養をとり、独立して運動や増殖をする生き物。玄教授がセンター長を務める原虫病研究センターでは、文字通りこの原虫を研究の主軸に据えている。
「私たちの研究室では、バベシア原虫とトキソプラズマ原虫を研究対象にしています。まずバベシア原虫からお話ししましょう。この原虫はマダニによって媒介される赤血球内寄生虫性原虫で、赤血球を破壊し貧血と黄疸を引き起こします。主に犬、牛、馬に感染し、稀に人間に感染する場合も。犬バベシア症は、北海道ではあまり耳にしませんが大阪以西、沖縄まで多くの獣医師を悩ませている感染症です。私が犬バベシア症に取り組んだのは、感染し貧血でフラフラしている犬が可哀想だったため。感染症対策には3つの大切なキーワードがあります。①早期の正確な診断②治療(治療薬)③予防(ワクチン)。そこで私が着手したのが犬バベシア症の診断法です」
玄教授が開発したのは『血清診断法』と『DNA(核酸)診断法』。前者は酵素反応を利用して抗体を検出・定量、後者はPCR法で塩基配列を増幅してDNAを特定する。診断薬開発メーカーなどと共同で野外試験を行ったところ優れた成果を収めた。その結果両者は数年前からペット臨床検査センターなどで検査項目として採用され、実用化に至っている。
猫を終宿主とするトキソプラズマ
免疫獲得仕組みの解明からワクチン開発に
一方トキソプラズマ原虫は細胞内寄生虫性原虫で、人を含む温血動物全般に感染する。猫科動物を終宿主(原虫が卵を産む宿主)とし、猫の糞便とともに排泄された卵が食物や砂場などを汚染し、経口で人や豚、羊に伝播していく。
「人では生肉や加熱不十分な肉からも感染するので、食肉媒介原虫とも呼ばれています。トキソプラズマが怖いのは妊婦さんが感染すると流産や死産につながったり、水頭症などの先天性障害を持つ子が産まれたりすること。人の1/3はトキソプラズマに感染していると言われますが、多くの人は免疫があるので健康を害しません」と、玄教授は語る。
トキソプラズマ症の診断キットは2015年に突如、製薬メーカーが製造を中止。教授が研究室内ですでに開発していた診断法を別メーカーに提供したところ「従来のものと比べ遜色がない」という評価で、2016年によりペット臨床検査センターなどで検査項目に入れられた。
現在ウイルス感染にはワクチン、細菌感染には抗生物質が有効だが、原虫感染には安全で効果的な予防薬も治療薬もなく、特に発展途上国で大きな問題となっている。
玄教授がワクチン開発に取り組んでいるのは、バベシア症とトキソプラズマ症。ご存知のようにワクチンは、一度病気に罹ると再び感染することのない身体の免疫反応を利用している。だがバベシア症とトキソプラズマ症において、その抵抗性免疫獲得の仕組みはまだ解明されていない。従ってワクチン開発のハードルは高いという。
「原虫は単細胞生物ですが人の1/5、約5,000種の遺伝子をもっています。ワクチンの標的となるのは一般的に抗原ですがウイルスの抗原が数種類なのに対し、原虫は数十種類にも。その中からワクチン候補分子を特定します。一方、宿主側の感染防御免疫担当細胞を探索し、それを有効に刺激する組換えワクチンの開発も行っています。ネズミを用いた実験レベルでは効き目はありますが、自然宿主での実用化にはまだ時間がかかりそうです」と、玄教授はその難しさを語る。
また人・動物と原虫の細胞構造が似ていることは、治療薬開発の難しさの一因に。効果的な治療薬を開発しても、同時に人・動物の細胞に効果が及び副作用を引き起こすからだ。
「ただし似ている細胞でも違う点が必ずある。その違う遺伝子を標的に探索することを、センター全体で取り組んでいます」と、玄教授は語気を強める。
今後は予防と治療に力を入れ
一歩でも進んだ研究を若い世代に手渡したい
基礎研究は大切だが、社会貢献も大切というスタンスで研究に臨んできた玄教授。自身が手掛けたバベシア症とトキソプラズマ症の診断法が、実際に使われていることが何より嬉しいという。
「診断の方は一応の結果が出ているので、今後力を入れていくのは予防と治療です。原虫の予防ができればそれが理想形。道のりは長いがワクチン開発に注力し、今より一歩進んだ研究を後続の研究者たちにバトンタッチしていくことが願い。治療薬に関してはゲノム解読によって、副作用の少ない薬を開発したいです」と、自身の研究の先を見据える。
原虫病研究センターのセンター長という多忙な立場にありながら、留学生との交流も大切にしている玄教授。
「趣味で釣った魚を調理し、学生たちにふるまうことが楽しみの一つになっています」と、笑顔で語ってくれた。
Professor
GEN GAKUNAN
玄 学南教授
中国吉林省生まれ。農学博士。本学原虫病研究センターセンター長。1982年、中国延辺大学獣医学部卒業。1991年、東京大学大学院農学研究科博士課程修了。1991年より(財)日本生物科学研究所に研究員として勤務し1995年、東京大学外国人客員研究員(文部省第3種)に。1997年、恩師が本学原虫病研究センターにセンター長として赴任するのに伴い、助手として来道。2000年に本学助教授、2005年に教授に。2016年より現職。趣味は海釣りと渓流釣り。
Data/Column
左/それぞれの言語が飛び交い、国際色豊かな原虫研究センター。玄教授の研究室にもベナン、ウガンダ、タンザニア、ギリシャ、フィリピン、中国、韓国から留学生が集い、日々真摯なまなざしで研究に取り組んでいる
右/赤血球内に寄生しているバベシア原虫(紫色に染まっているリング状のもの)