「自己家畜化現象」とは、人類が野生生物とは異なり、自らつくる文化的な環境によって身体的にも特異な進化を遂げたことをいい、自己をあたかも家畜のごとく管理する動物であるとの認識から生まれた人類学上の概念です。  
自然淘汰から大幅に解放され、科学技術の発達によって寿命が延びた今日のわれわれを象徴しています。
  「家畜」とは、野生から切り離され、形や習性を変えられた動物。そうだとすると、自ら作った社会制度や文化的環境によって飼い慣らされ、それに適応して自らを変えてきた人類も、「家畜の一種」と見なされる。
  快適な生活を求めて作り上げた文明社会によって、生物としての耐性を衰弱させられていく人類…。ひとたび家畜となった動物は、自然に戻しても生きていけないことが多い。

出典:尾本 恵市 (国際日本文化研究センター教授)

 

人間の「自己家畜化」

無痛文明論(1) 森岡正博 :『仏教』44号 1998年7月 62−96頁

 集中治療室のなかの人間にいちばん似ているのは、家畜工場のなかの家畜である。狭い檻のなかに閉じ込められ、日光や温度などを人工的にコントロールされ、食糧はベルトコンベアによって充分に与えられ、そうやってただひたすら食べて眠ることが彼らの生になっている、ニワトリたち。 
 人間は、家畜にしているのと同じことを、人間に対してやってきたのではないか。それをもって文明だと言ってきたのではないか。 
 これは、人間が自分自身を家畜にするという意味で、「自己家畜化」と呼ばれてきた。自己家畜化ということばは、二〇世紀初頭にアイクシュタットによって提唱された。彼は、人間が人工環境のなかで自分自身を家畜のような状態にしていると考え、その証拠として、人間の身体の形態に、ちょうど家畜と同じような独特の変化が起きていることを指摘した。その考え方は、やがてローレンツや小原秀雄らに受け継がれた。 
 無痛文明について深く考えていくためにも、彼らの自己家畜化論をまず検討しておく必要がある。小原の著書を参考にしながら、簡単に見ていきたい(小原秀雄『ペット化する現代人』NHKブックス(一九九五年) 『教育は人間を作れ
るか』農文協(一九八九年) 『自己家畜化論』群羊社(一九八四年))。 
 人間は、約七〇〇〇年前に、野生の山羊や羊を飼い慣らして家畜とした。山羊などは放牧していたが、現代にいたってニワトリなどを小屋の中に監禁して家畜化することをはじめた。ベルトコンベアにのって流れてくる餌をただ食べ続けるだけ。ケージに閉じこめられて、運動することもできない。まさに家畜工場である。放牧の場合と、家畜工場の場合とではずいぶん違いがあるのだが、小原はその両者に見られる家畜化の特徴を次のように整理している。 
 まず、家畜は人工環境のもとに置かれる。多かれ少なかれ、人間が管理している空間のなかに囲い込まれて、家畜は生活をする。家畜工場の場合はとくにそれが著しい。人間が用意したシステムのなかでしか家畜は生きていけない。 
 第二に、食料が自動的に供給される。家畜は、自分で餌を探してこなくても、飼い主である人間から毎日餌を与えられる。食べ物を自力でとらなくてもかまわない。飼い主に依存していればいい。自分で餌を探す能力も使わなくていい。 
 第三に、自然の脅威から遠ざかる。たとえば、天敵の襲来や、干ばつや、気候の変動などから守られる。家畜が死んで
しまったら人間にとっても大損害だから、人間は家畜をできるかぎり守ろうとするだろう。そのために、様々な工夫を凝らすことになる。 
 第四に、家畜は人間によって品種改良(人為淘汰)させられていく。たとえば、野生のオオカミは、人間によって家畜化されて、イヌになった。忍耐強く人間の言うことを聞く、新たな種へと作り変えられていったのだ。人間にとってより
役に立つような家畜へとたえず改良されるのが、家畜の宿命である。 
 第五に、家畜は人間によって繁殖を管理される。人間は家畜を品種改良するときに、優秀なオスとメスをかけあわせて子どもを作る。そうやって、子供をたくさん産むブタを作り出したり、乳がたくさん出るウシを作り出したりする。このような生殖の管理こそが、家畜化の本質であるとも言える。谷泰は、生殖と授乳への介入こそが家畜化を成立させたということを、説得的に示している(『神・人・家畜』平凡社(一九九七年))。 
 第六に、家畜にされると、その動物は身体の形が変わる。たとえば、イノシシを家畜化したものがブタなのだが、ブタは家畜になって身体の形が変わった。くちさきが短くなり、身体から毛が抜けて脂肪が付いた。牙は退化した。イヌもオ
オカミに比べて変化している。性周期も変化する。 
 小原はこれらの点を指摘しているが、私はさらにふたつのことを付け加えたい。 
 まず、家畜は死のコントロールを受ける。つまり、人間は家畜が予定外のときに死なないように全力でコントロールし、死ぬべきときが来たら強制的に殺す。ブタは、大きくなっておいしい肉が付いてくるまでは全力で生かされ、食用に
売りに出されるときに強制的に殺される。家畜に死の自己決定権はない。家畜では、「予期せぬ死」というものは全否定される。死は常に予期されているのである。 
 次に、家畜と人間のあいだには独特の共犯関係が成立する場合がある。人間が家畜を餌付けするときのことを考えてみれば分かるように、家畜は餌をもらうことと引き替えに、労働をしたり、従順になったり、逃げ出さなかったり、芸をしたりすることを覚える。家畜は、自発的服従の状態にみずから身を置くことがある。いったんそうなってしまえば、そこから抜け出すのはとても難しいだろう。 
 ところで、自己家畜化というのは、人間がみずからを、このような家畜の状態に追い込んでいくことである。順番に見ていこう。 
 まず人工環境化であるが、人間は都市を形成することで、自分たちが生きていく空間を人工環境にしてしまった。家、道路、上下水道、自動車、電車、電気、そういうものに囲まれてわれわれは生活している。自分の部屋から電車に乗って出勤して、空調のきいたオフィスで仕事をしている姿は、家畜工場のニワトリとどこか似ている。 
 次に、食料の自動補給であるが、これも都市に住む人間が置かれている状況である。都市の住人で、自分の食べる食料を山のなかで採ってきたり、海で釣ってくる者がどのくらいるのか。ほとんどの人は、材料や製品をスーパーマーケットなどで買っている。そうして短時間で調理して食べる。お金があるかぎり、ほぼ自動供給に近い。 
 第三の自然の脅威についても、人間は文明化の過程でそれを克服してきた。氾濫する河川の整備からはじまって、台風が来ても壊れない住居を発明したり、農作物の大量生産と備蓄によって食料を安定供給する仕組みを開発した。 
 第四の品種改良についても、人間は一貫してそれを行なってきた。今世紀には優生学があらわれて、優良な人間だけを
生んで不良な人間は生まれないようにする政策が、多くの先進諸国で実践された。いまその試みは、ミクロなテクノロジーを利用する形で、姿を変えて進行しようとしている。これについては、のちほどゆっくりと考えていくことにする。 
 第五の繁殖の人為管理もまた、現代の科学技術が得意とするところである。人工授精、体外受精、出生前診断などによる生殖への介入が、ここ二〇年のあいだ大きな生命倫理の問題を生みだしてきた。それらの技術は、まず家畜で開発応用されてから、人間に転用されたものである。家畜の繁殖に介入して「生命の質」を管理するのと同じことを、現代の医学は人間に行なおうとしている。現代の生殖技術ほど、人間の自己家畜化がストレートにあらわれているものはない(小原が優生学と生殖技術についてまったく触れないのは理解できない。これこそがポイントなのに)。 
 第六の身体の形態の変化であるが、小原によると、家畜にあらわれる変化と同じものが、人間にもまた見られる。たとえば、巻き毛・縮れ毛の出現、椎骨数や四肢骨の変化、皮膚の色素の増減などは、人間と家畜だけにかぎって顕著に見られる形態変化である。人間が自分自身を家畜化することによって、人間は家畜動物一般に見られる特徴を兼ね備えることになったというのだ。 
 では、私が付け加えた二つの点についてはどうであろうか。 
 まず死のコントロールであるが、現代の文明はあきらかに人間の死をコントロールする方向へと進んできている。老化によって衰弱するまではできるかぎり病気を治し、寿命を延ばそうとし、もうこれ以上延命できないと分かったときには尊厳死や安楽死を認めようとする流れが強くなってきている。「予期せぬ死」の徹底的な排除をめざして文明は進んでいるように見える。「死の自己決定権」の考え方もこの流れの上にある。これについては、またのちほど考えよう。 
 次に共犯関係であるが、人間は、食料と安定と快適さを供給してくれる社会システムとのあいだに、共犯関係を取り結んでいるように見える。たとえば、地球環境問題がいくら話題になっても、いまの経済成長を下げないかぎりにおいての問題解決策しか具体的に出てこないのは、いまの生活水準と安楽さを保障してくれるシステムをわれわれが手放したくないからであり、少々システムに縛られたとしてもその下で生き続けていきたいと、本心では思っているからである。 
 このように、家畜化の特徴のほとんどすべてが、現代文明のもとで生きている人間にも当てはまるのだ。人間は、みずからを家畜化することによって、文明を立ち上げた。これが自己家畜化の文明論である。みずからを家畜にすることによって、人間は、家畜の安楽さと悲哀とを一身に担うことになるわけだ。小原によれば、現代社会のいじめや管理教育や環境問題などの根本にも、この自己家畜化の問題があるという。 
 自己家畜化論は、とても鋭い。このような見方で、現代文明を統一的に見ていくことで、いろんなことがクリアーに分かってくるであろう。しかしながら、小原は、自己家畜化論の先になにが待ちかまえているのかを、まだ見通していな
い。それは、小原が、自己家畜化へと突き進むわれわれの「身体」と「生命」の関係について深く考えていないからである。そこを突き詰めて考えることによって、われわれは「無痛文明論」へと導かれていくことになるのだ。